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なんとなくリンクにインスタグラムを設置しました
きがるに撮って感想を書いている
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ライブペイントもやります

http://www.strobe-cafe.com/harajuku/schedule/2015/10/201510251.html

続いて明日10月25日は
原宿ストロボカフェにおいて
たのしいライブペイントをやります。
ぜひおこしください〜

展覧会参加のお知らせ

捨象今日までいったい何があったのか全くちゃんとお知らせをしていないまま今日になってしまったのですが
今日から3331のアキバタマビで始まる展覧会に参加します。

関口敦仁、中原浩大、小泉俊己、日高理恵子(敬称略)
企画者の先生方にそれぞれ推薦していただいた作家による展示です。

また、本日は迎絵里子さんのパフォーマンスが16時半から
先生方のトークは17時から
そのあとレセプションパーティーがございます。
是非おこしくださいませ。

また後日
11月14日には迎さんのパフォーマンス、
11月29日には迎さんのパフォーマンスと作家のトークがございます。


今日までいったい何があったのかと書いたけど変なものを作って「ヘン…!」て泣いたりしていたんだけど、昨日他の作家の方々とライティングの時に私のへんな作品にライトを当てるのが難しく「へんなものを作ってごめんなさい」といったら「へんじゃないものはないですよ」「ここにあるものでへんじゃないものはない」一同「ここにあるのはみんなへんなもの」となって、本当ですね、今日から開催です。火曜日はお休みなのでお気をつけください…!
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http://akibatamabi21.com/exhibition/151129.htm



「捨象考」
田島大介、迎英里子、 高山陽介、齋藤春佳

2015年10月24日(土)~2015年11月29日(日)
12:00 ~ 19:00(金・土は20:00まで)
火曜日休場

アーツ千代田3331内のアキバタマビ21
・東京メトロ銀座線「末広町駅」4番出口より徒歩1分
・東京メトロ千代田線「湯島駅」6番出口より徒歩3分
・JR「御徒町駅」南口より徒歩7分
・JR「秋葉原駅」電気街口より徒歩8分

2012年「大学絵画」、2013年「ノンジャンル(仮)」に続く、第3回大学間交流企画アキバタマビ21特別展。今回はゲスト企画者に関口敦仁(愛知県立芸術大学デザイン専攻教授)、中原浩大(京都市立芸術大学彫刻科教授)を迎え、小泉俊己(多摩美術大学絵画学科教授・アキバタマビ21プロデューサー)、日高理恵子(多摩美術大学絵画学科教授)の4人によって企画される展覧会。
 デジタルによる情報の共有。それらは時差もなく、しかも一斉に世界に立ち上がる。そのスピードは選択の余地すら与えることなくわれわれを覆い、自由な呼吸を遮断するかのようだ。しかしそんな時代だからこそ、われわれはその皮膜を破り、最小限の呼吸と選択の自由を確保しなければならないのだ。何かにたどり着こうとする時、どれだけの「捨てる」選択をしなければならないのか。残ったものたちは、捨てられなかっただけにすぎないのか。いや、どれだけ捨てることへの逡巡を抱えて来たか、その残像は必ず見る側に伝わるはずだ。
 それぞれの企画者が一人ずつ推薦した4人の作家の全く違う表現が出会い、反応し合いながら立ち現れる世界が、既存のシステムに取り込まれることなく、正統な逸脱者として(あるいは確信犯として)、あらたな構造を生み出すことが出来るのか、ひとつの実験の場としての展覧会である。

【イベント】
●10月24日(土)
・16:30〜   「実践」迎英里子
・17:00〜18:30 トーク「捨象されるリアリティ」先生方によるトークです。
・18:30~20:00 オープニングレセプション


●11月14日(土) 
・16:30〜「実践」迎英里子

●11月29日(日)
・15:30〜「実践」迎英里子
・16:00〜17:30 アーティストトーク
田島大介 迎英里子 高山陽介 齋藤春佳
ゲスト:森 啓輔 氏 (美術批評家/ヴァンジ彫刻庭園美術館学芸員)

ひどいちらかり

ひどい、ちらかっているよ、とつぶやいて、おもしろ、と写真を撮って、日中さんぽにでた。
展示前でわー!である。
友達と代わる代わる会える日々を終えてこの5日さみしくて、ぐ、となる。思ったより寂しがりだということをわかっておいたらいいのかな、などとも思う。
しかしさみしさとは本当の感情なんだろうか?作られたものなのではないだろうか。と去年の今頃一人でぜんぜんさみしくなくて思っていたなあ。さみしいのさのじもなくて、さみしい?と聞かれたことで、その種が植えられたようで、やめてくださいよ、でもそれは少しゆかいなあそびですね、と思ったものだった。
いろいろあった。
日記を書こうと決めた。
今はこんなにちらかしても誰にも怒られない、と思ったんだけど、自分がちらかしたいのかといったら、そうではないし、つまり、この間ひとに私の行動ロジックのだらしなさについて怒られたんだけれど、私は怒られたくないのではなくてそれをしたくないなあとわかったので、つまり、見せるとか見せないとかではない言葉で自分のしたさに立ち返りながら進むために、日記だな、と思ったのだ。あと後輩がいつか編集者になった暁には齋藤さんに原稿を頼みますと話していたので、そういう仕事もしたいなあ、とふんわり思っていたところ、飲みの席の言葉を真に受けてしっかり思った。やることで、やる人の呼び名が付いていくものだし、日記というのは習慣だから。

齋藤さんは言葉を選んでいるから誠実、と友達が飲みの席で言ってくれて私はまあそうっすえへみたいなことを言ったけど、なんだか?みたいにおもっていて、そのあと風呂内で考えたのは、言葉はコミュニケーションにおいては感情の隠蔽のために発達したものなのではないかという説を私は最近読んだ本から手に持っていて、だから、言葉を選ぶということが誠実なのかはちょっと、安易には言い難いことだと思った。
例えば、笑いながら怒るひとみたいなことが可能ということ、だから竹中直人の笑いながら怒るひとはこわくなくてまあまあおもしろいのだ。受け取る印象としては笑っているということの方が優勢だし、だけど強烈な違和感はじつはなくて、にこにこうけいれられる。まあまあおもしろい。強烈な違和感がないというのは、人は気持ちが笑ってなくても笑う表情を作る場面は、実は本当に普通にあるからだ。そのデフォルメだから意外と受け入れやすい。ただその現実の中にある笑いのグロさを、無意識のうちに感じ取るからめちゃ笑えるわけでもない、こちらも、さらに、なぞのわらいをうかべるしかないというようななかなか流石の芸だ、と、書いてるうちにすごいなという気持ちになってきました。
論旨を書き始めの気持ちに戻すと、怒ることはそういう風に社会生活で必要な場面が少ないし。だから怒りながら笑うひとの方が難しいよなあ、とおもったりする。そしてこわそうだ。なにかが上手な人、だれか練習して見せてくれないかな。
というか今は竹中直人すごいなあという気持ちになったので竹中直人にそっちもやってほしい。タモリさんあたりがおねがいしてくれないかなあ。
今逆に遠くなったような気もする。

話は逸れたけれど、言葉は感情を隠蔽するけれどやっぱりことばによってしか考えられなかったり伝わらない物事はあって、私は言葉でいろんなことを教わったり感じたりしてきたし、だから、コミュニケーションに進む前の段階でもっと言葉と自分を近くしないとなと思う。しないとなというより、したいな、というかんじ。
それは、絵を描く時に、しかも例えばあるていどの大きさの絵を描く時に、エーン変な絵…ととちゅうまでめげてるんだけど、ハタと、ぴ、と弛緩しながらしまるようなときがあって、これはこの大きさの絵を描くことでしか来れない考え事の次元や、となる
おおきければいいんではない、いっぱいよくない絵ってのはあるからね
てゆうか別にみんな考えるために書いてるわけじゃないんだろう描いてるわけじゃないんだろう考えてるから見た時にいい絵ってわけでもないし
わたしもべつになにかのためにかいてるわけじゃないところで、
自ずとくるから面白いのであって、
忘れていたところに、思考?と名付けるしかないみたいなものがくるから、面白いのであって、それはインスタレーションの過程もそうで、
作品とお互いによりかからないでいられる状態がいいなと思う
おもしろくしたるで、としてると作品がおもしろくなってきて、おもしろいっ!って自分で喜んでるみたいなのが、ずっとやれたらそれがいいな、難しくてうんうんしてしまう時がめちゃあってつらいけれど。

全然場慣れしてなくて、展示前は、わー!ってなってしまってつらいから、
つらいから逆に来年はもっと展示やろうと思った。もっと区切っていくことが必要だし場数も必要だし、まだ作品の見え方がいつも謎なのだ。もっとやれば、展示のたびつらくて、つらいのはいやだからつらくないやりかたを編み出していけるのではないかと思っている。三回は展示したい。一度は個展。



その前にまずくる展示をよくする、あとすこし、10月24日〜アキバタマビで展示をさせて頂きます。どきどき。

a fragment of the fragment

かけらの中のかけら

かけらの中にかけらが描かれています。
ここにかけらがあるということは、
ここもかけらの中かもしれない。

そんなこと言って、自分が居るここがかけらの中のはずはない。部屋の中だ。いや、外。どちらにしても少なくとも地球の中だ。仮にそうじゃなくても宇宙の中だ。だけどかけらの中のはずはない。
それはそうです。
当たり前に。

けれど、この世界の当たり前の仕組みだと思っているものは私たちの知り方で現れているだけで、本当はその外の仕組みがあるのかもしれない。そう考えることは、結構現実的なことではありませんか。
当たり前だと思っていること、というのは、何かに当たる前、出会う前に既に持っている認識でしかない。
何かに当たって、その衝撃で砕けた、かけら。


このかけらの中の絵がそうであるように、
本当はここはだれかにとってのかけらの中なのかもしれない。
だって、このかけらの中に描かれたかけらがあるみたいに、
自分の目の前にもかけらがあるから。







ものをおもうことのお守りに。
遠いへんなきもちになる時間が、
それが許される時間が、
生涯の中の一瞬、このかけらぶんくらい(どのくらいだろうか)出現して消える。
それに効くかも、それはいいことかも、と作者は考える、簡単なおまもりみたいなかけらです。

おまもりというか、かけらで、
効能とか使い方、つまり実際未来に何が起こるかはあまり決まっていません。
飾るとか持ち歩くとかバッジにするなど。





書いてあること面白いな、と読んで思ったので載せました。
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