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どこにだって行きたいしいつだって帰りたい

  • Day:2015.08.20 18:50
  • Cat:日記
8月はベネチアにいっていたり、長野の実家に帰省していたりして、4日くらいしか自宅にいなくて、浮いたようなきもちです。
そろそろ帰りたい。

最近は東京にも長野にも
「帰る」という言葉を使うようになったな、と気づきました。

そして、
何所に行って、居ても、しばらくすると帰りたくなる。
今は東京の家に帰りたいし、
東京にいる時はいる時で四月とか長野ほんとさいこうでこの状況も今だけのものでいつか消えちゃうのになんで私今長野に居ないの、って実家に帰りたくて泣いていたし、
ベネチアから帰る途中のマルコポーロ空港からカタール空港へ向かう飛行機機内でも、もう帰り始めているというのに東京に帰りたい気持ちがただ溢れすぎて泣いた。
ただし、その時は機内でディズニー映画の WALL-E見て泣きやすくなってた、というのも多分にあります。
一緒にうれしがったり悲しがったり(という感情を持つように見える振る舞いの動作を表出して)共に過ごしたそのロボットが、ほぼ全ての部品を総取っ替えした時に、もう、何にも覚えてないただのロボットに戻ってしまって何もかも忘れてしまうなんて、そんなの一瞬でも耐えられなくて、泣いた。
本当に全部忘れてしまうのか、どこかに本体?が残っている所はかけらでもあって、そこにちょっとでも記憶とかがのこってるんじゃないか、本体が残ってなかったとしてもだってそもそもこの機械の機能のどこかに意志らしきものが現れていて記憶らしきものを持っていて(というように見える)、心みたいなのがあって、ということ自体が、その心とかが何所に宿ってるのかって言ったらそれ自体が謎でしかない。
だったら、ほぼではなくもはやすべて総取っ替えしても消えてしまわないなにかはどうしてもあるんじゃないか、消えちゃうなんてやだ、っていうのが最も大衆(自分)に受け入れられやすい一般的ヒューマニズムの形というか、
人類の根底にある願いなのかな、と思った。
(これは宗教とか民族とかも超えうる同じさかな?そこはちょっとわかんないな。と今考えた)

そもそもこの機械の機能のどこかに意志らしきものが現れていて記憶らしきものを持っていて(というように見える)、心みたいなのがあって、だったら、総取っ替えしても消えてしまわないなにかがあるんじゃないか、
というのは、ロボットに言っているが、
人間にも言えて、
というか自分以外の他人の自我とかの存在は本当の本当には確かめようが無くて、でも確かにこういう風に周りの皆さんが現れているから、「(というように見える)」という言葉を使うのだけれど、
さらに言うと、ロボットっていう機械に心があるのが謎なように、人間っていうお肉に心があるって言うのも同じように謎で、ぜんぜん本当は解らない。
でその体をどんどん替えていって悪い所を総取っ替えしていって、そしたらどこまでその人自身なんだろう、何所まで取り替えていったらその人自身じゃなくなっちゃうんだろうというのは、よくある問いで問い自体におもしろみはないが、
もはや死んで、肉体が失くなっちゃっても、その人自身のその人らしさみたいなのは、こちら側から見る分には特に消えない。
ただ、空間にそれが再生はされなくなる。
逆に体がぜんぜん変わらなくっても、脳卒中で倒れて言葉が出なくなってすっかりおじいちゃんではなくなっちゃったように見えたおじいちゃんの中にあるおじいちゃんらしさみたいなものが、何年も何年も経ちながらその体が動いて活動を行っていることでどうしても表出してくる、おじいちゃん特有の精神活動自体にうらうちされたように見える行動が空間に再生される様を見ると、
体側に帰属しているとか
心側にあるとか、
なんていったらいいのか、言い切れない。
物があるようにあるような感じではなくある、
表出する、
その人物自身というのは
起こることの中に個別にあるのだ、と思う。
物があるようにではなくてといったがそれはくちがすべっただけで実際物があるということも本当は起こることの中に個別にあるということなのではないかと思う。
フルフルしたことなのではないかと思う。
つまりこの目の前に置いてある伊右衛門贅沢冷茶ペットボトルに水だし抹茶入りのお茶が入っている様も、固定された物に思えるが、この地球上の重力抗力の現れの中であるからこのように静止しているだけで、
お茶だとまあフルフル感がそもそもあるからいい例じゃなかったけど、
静止して決して動かないみたいに見える畳まれた手鏡も、
重力抗力の拮抗が破綻した瞬間に動き出す、力が加わっていつづけている、位置エネルギーを持ち続けている
これは詭弁ではなくて本当に物理的にそうである。
それで人のその人自身のありかみたいなのを
それを魂が…とか言っちゃうと、自分はスピリチュアルアレルギーみたいな所があるから、キモ、とか反射で思っちゃうんだけど。
物はこれ!
それはあれ!
これはそれ!
とは単体で言えないというきもち
最近見逃していたよときづいて見てるドラマはど根性がえるのぴょん吉です。
ただのTシャツでしかも、ただのカエルで、しかも、平面だから、そこに居たって、いない、触ることだって殆ど出来ないようなものだけれど、
それこそど根性自体のような触れないもの、
だけれど確かにそこに存在するものが
ぴょんきちが
消えてしまうなんて耐えられない、いなくならないでほしい。と毎回一度泣いている。



泣くのと帰るのに関しての話に戻ると、今は泣かないけど、そろそろ東京に帰りたい。
冒頭にも書いたけれど最近になって、長野にも東京にも「帰る」という言葉を使うようになった。
何所にだっていきたくって、誰にだって会いたい
だけど何所に行っても最後は早く帰りたいと思っていて、
帰った先でも、しばらくすると、帰りたいって思っている。

じゃあその帰りたいってどういうことなのかな、と考えた。
生活をしよう、ここではできない、と思って、お金を払って自分の家を借りたけれど、
なんとなく、今はベースが揺らいでる感じで、あやしい。
いつだって、どこかに帰りたい。
それは、まず、払うお金の稼ぎ方法を主にバイトにおいているのだが、
あんまりにもそのバイトを自分自身と切り離したものだとして扱いすぎたって言うのがあって、けれど切り離しきれるはずは無いし(バイトちゅうは幽体離脱してるけど幽体離脱してるわけではないから)、もっと、そこも、自分と切り離さないで行う形に変えていこうと考えている(また齋藤の強引力と称されてしまいそうな力技でかえてしまう)
帰る形を携えるみたいな。
生活というのは帰る形を作るということなのかな、とかんがえる。
帰り方というか。場所というより。ただし、場所も含めて。

自分への帰り方、みたいなこと。
それを場所の助けとか
習慣の助けとか
物の助けとか借りてやりたいんだと考える。
やることの中に、
自分の体一つで自分への帰り方みたいなのが、持ててきたら、もっとどこにだっていける、いれるのかもしれない
というかどこにだっていきたいし行くと決めたら行くは行けるのは、わかったから
考えながら、やりながら、考えながら、自分に帰る形みたいなのを鍛えようと思っています。
そうして、
どこかに行きたい、居たい、人と会いたい
そこにやっぱ制作っていうのががどうしても絡んでくる
なくてはならないものとしてはいってくる
そうしないと人と居られない
制作なんかが無くてはならないなんて人間の形がほんとにいびつだなあと泣きたくなるけれど、よかったとも思う
ひとつひとつ、一日ずつやる
ど根性だよお、と思っている。
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