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『特別展 第二回メタモルフォーシス展』参加

来週火曜日から、長野市で展示に参加させて頂きます。
長野県ゆかりの若手アーティストというくくりの9人のグループ展です。
長野駅近くなので、ぜひお越し下さい。
私も今は近所に住んでいます。楽しい所をご案内します。
これでひっこすつもり。

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『特別展 第二回メタモルフォーシス展』
ギャラリー82
長野市岡田178-13 八十二別館1階
6月3日(火)〜 6月29日(日) 会期中無休
平日 9:30~18:00
土・日・祝 10:00~17:00
入場無料
http://www.82bunka.or.jp/gallery/2014/06/-2.php
★6月7日(土)
10:15-11:45 出品作家によるギャラリートーク
13:00-15:00 詩人杉本真維子×出品作家とのシンポジウム
★6月21日(土)
14:00-15:30 教養セミナー「絵かきのひとりごと」甲田洋二氏(武蔵野美術大学学長)
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7日(土)にはトークがあって、私は15分もひとりで面白いこと言い続ける話術がないので、パフォーマンスしよかなと考えています。といったら、「いいよ踊っても」といわれました。踊りはしません。
下記はパンフレットに載せたステイトメントです。

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星の光は過去の光です。
星が光ってから、
その光が地球に届くまで、
星と地球の距離分、時間がかかります。その中にはもう消滅して既にない星の光もあるでしょう。けれど、その光は、実際に地球上の現在に今届いていて、本当に見ることができます。
本当に見えると言っても、それは、錯覚や幻視やユーレイと同等で、存在しないものではないかとも言えます。
でも、あなたの体からは、犬の目と同じ様に見る事は出来ないし、だれかと同じ様に見る事も出来ません。つまり、個々の体による知覚様式を通して、世界は現れます。その個々のうちのひとつが見た光を、今はもうない、他の方法では観測できないという理由で、現実ではない、と言うことはできない。
逆に、ひとつの個体から見えない光を、ない、とも言い切れない。それはその個体の知覚様式において見ることができないだけかもしれないからです。
あなたが見る地球上の空間で、例えば、花器がたおれます。
破片、水、花、すべては重力によって、地面に落ち、目の前にあったものはもう今はありません。
しかし、星側の目を想定すると、
花器がたおれる前のその花の光景が、今、やっと、その星に届いているというのは、ありうることです。あなたが見たようには見えないかもしれない。けれど、別の形だとしても本当に見える。それが、その星側の目にとっての現実です。
見るという行為には、そういう、日常で知覚可能な時空間とは別の時空間を、体から世界にもちこむ現実の魔法が潜んでいて、見る物を作るということはそれを爆発させるための呪いなのかもしれません。
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爆発させるための呪い、って、なんかかきたくてかいちゃったんだけど、
ここで言う爆発というのは、破壊するのと光を放つ、目に見える、みたいな感じで、
呪い、というのは、日常の中での力ではゆるがしがたい世界の仕組みに対して、現実に本当に効き目を信じて行う行為、みたいな感じです。
初めての地元での展示で、逆にアウェイを感じています。
自ら勝手に。
長野はとてもいい所で、空気もおいしく、食べ物もおいしく、人も心が優しい、美女が沢山いて、山もよく見え、庭も手入れされ、とてもいい所です。
自ら勝手に、中学高校の時感じていた呪いのような気持ちと言うか
地元と自分に自分でかけた呪縛に絡めとられながら、
反骨精神のような気持ちになってしまった。
しらねえよ、みたいな
癒しじゃねえんだよ、みたいな
フィクションじゃねえんだよ、みたいな
別に誰にもアートとかフィクションだね、現実じゃないね、とは言われていないのに、段々と勝手に戦っていた。不毛です。
中学のとき聴いてた音楽聞いたら制作がとてもはかどりました。
とても暗いきもちになった。
いまはなおりました。
でも、そもそもどういうところから出発してここにきたのか
なんでこれを選んでいるのか、みたいなことを、言葉にならない所まで
ぐっと考える機会になりました。

やっぱり
目の前のものごとが本当に現れているといいうことに凄く喜びがあって
でもそれが消えてしまう
本当になくなってしまう、ということが堪えがたいため
本当に無くなってしまうの構造を
変えるような ことはできないのか
体や空間を使って試している。というのが大筋です。
でも、なぞがあって
ときあかしていきたい。
わかりやすさに落とすのではなく、ひらきたい。

ここ4日間制作だけするのを許してもらって、ちょっとバイトも入れてもらったけど
そしたら今はなんか体がブラブラになって
うわー手が、ブラブラだ〜ってなって、
楽しいと思いこみながらただやっています。考えていることと目の前に出来上がってくるものの間に、自分を明け渡しながら
だいじょうぶかこれ、形になるのか、と思うけど、ただやるんだと思います。

あと実は9月にも長野県内で展示が決まりました。
とても、自分にとっては自分より上の方にあるできごとで、ありがたく、こわい。がんばりたくたのしみです。標高もめちゃ上の方にあるのでその時は是非一緒に山で遊んでください。
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目が吸い込んだそばから消えていく

今日はよく目が景色を吸い込む。

どぶ川を水が流れている
肌に風があたる
むくどりが大量に地におりて鳴いている
おやじが2人話し込んでいる
からすが一対腹と腹を不思議に触れ合わせている
金網にピンクのテープがリボン結びしてある
それがもう一度ある
養護施設の職員の人が遠くで会釈をしている
「南フランスだよ、南フランス地方だよ!」と四つの灯火した自転車に乗った男子中学生四人とすれ違っていく
川の中州の葦の繁茂のフワフワは描くことが出来ない、と思う

この景色を
見るだけでいい、
これだけでもう充分だと思いそうになる。
けれど、
この景色がもう、消えてしまう
もう消えてしまった。
どこまでもおいつかない。
思い出してそれを描くことも思い出しきれないしさらに忘れてゆく。
すべての状況が変わっても
私が見た、記憶は残っていて、それを
思い出しきれるのかというと、思い出しきれない
私の体に残った記憶も消えていく

私は疲れ、そして老いてゆく、
いつか何もかもを忘れるだろう

私の体が消えたらそこに残っていた記憶もなくなる。

けれど、
あったことは無くならないんじゃないか。
世界の記憶は消えないんじゃないのか
私はそう考えたい。
全部は消えてゆくけれどもそれ以上の結論が、あるのではないかと、考えていて、
そこへいきつきたい。
そうしないとその仕組みに耐えられないのだ。

紙切れが宝だったりする

紙切れがその時の自分にとっては宝だったりする、と、
ノートのはしに宝を見つけて、はっとして思い出した。
以前は、大事なゴミと言う言葉を使って、そのことを、抱えていたけれど
それを基準にして、ものの選び方とか、持ち方とか、制作を、考えていたきがするけれど、
なんか、
いつのまにかそれをすてようすてようとしていた気がする。
ひとへのあこがれがまじっているし、
何がいい方法なのか学んできたことを束ねるものを持っていないきもしてきて、
今は整理がついていない。

できごとは消えていってしまうけれど、忘れていってしまうけれど
それを当然だと受け止めているけれど
それを当然だと受け止めているからこそ
それを
それでもぐっと覚えるという抵抗を体ですることを
私はやめたくなくて
そこには道具も使える。
というのが
制作をする理由のうちの一つではないかと考えている。
センチメンタルな所から出発している。

ーーー

全部を覚えておきたいとは思えない、
それは自分が原因でそうで、
(人が原因の嫌な記憶の反芻はある程度は甘い味がする)
(人を原因にしてしまえば嫌な記憶の反芻はある程度は甘い味がする)
(自分に責任を見なしたいと思っている)
なんというか、なんでこんなふうにしか、生きられないんだろう、と
不思議で、というか、世界に申し訳なくて、そういうことばかり考えると世界にいられなくなりそう、全部を覚えておきたいとは思えない、記憶をすべて失って生まれた時からやり直したい、のだけれど
それでも、それも、
うすれても、なくならないということを
考えたい
忘れたく無いことを忘れてもその出来事自体は消えない
忘れたいことを忘れてもその出来事自体は消えない

ここを消える、としても消えない、としても
たえがたいけれど
ギリギリのところで
消えないのだろう。に振れる。
それは、消えないでほしい、と、考えているということにもよるのだと思う。
どんな記憶も、
脳が忘れても、
あったことはなくならない。

受け止めていく方向で考えたい
忘れたいことは全部埋めていい、のだけれど、そこには、埋めると言う自分の行為が、
自らの選択した能動が
かかせないのだと思っている。

だから制作に向かっていると言うと、まとまるけれど、
世界で、生活で、
方法はそれだけじゃない。
ただ、方法はそれだけじゃない中で選び取っているなりの、
向いている方法というのはきっとあって、
頭と体を使って考えて、ものものに、紙切れに、助けてもらいながら、
今までやってきて
(制作をやってきて、というのと、それで生活をやれている所は本当にある)

で、これからやっていくにあたって
今までやってきたことを常に捨てながら行くことが大事、と、もちろんそうなんだけれどそれだけじゃなくて、いつのまにかなんか色んなことをすっ飛ばして短絡的なエッセンスだけをキーワードに抱いてしまって、
今までを捨てなきゃと思っていたけれど

今までのことも大事にしてあげていいし
また、
これまでのやりかたでは、歯が立たないことも、きっと、沢山あるのだと考える。

スノボは自分が滑らないと帰れないと知った。

最近初めて全く1人で運転をしました。

助手席に誰も乗ってもらわないで走るのは免許取得(6年前)以来、初めてのことで、
最近練習もしていたし、
それは、到着し、もちろん無事に終わったのだけれど、
しかし、終わる前のその当時は、無事に終わるかどうかはわからないわけで
無事に終わるだろうかと思いながら、無事に終わるんだと思ったりしながら、
実際には、無事に終えるようにひとつひとつ行為していくしかなく、
私はそのとき
これはスノボに似ている。
と思った。

逃げられなさにおいて。


私は今年初めてスノボに行きました。
妹に行くよ今日いまから、と、つれてもらって。
そして、今までの人生でなった事のない程の筋肉痛にその後3日間なった。
今まで使った事がない筋肉を使う事になったからだ。

その日
まあなんとか、滑れるような感じになって、
けれど最後に登ってしまった坂が
私にとっては、とても厳しいもので、
滑り出しがどうしても出来なくて、私は、くやしさと、こわさと、さむさと、つかれとで、その時しばらく泣きました。
というか泣きたかったので泣いて
妹は「本当に泣いてる」といっていた。

今考え直してみれば
滑りおりる行為をしたくて、したくないので、その代用として、泣く行為をしたかったのではないかと思います。
しかし、それは、何にもならなかった。
その状況から抜け出すには
この場所からおりるしか無くて
でもそれには
自分の体で自分が滑り降りるしかなくて
その逃げられなさには、この滑れない体からの逃げられなさがあって
そこでは、
自分の体で行為を遂行する事でしかその行為を終えられない
という、
当たり前の現実があった。
登ってしまった坂
そこからはもう、自分の体が動くしか無くて、そこでは、本当に知らない筋肉を使うことになった。


リフトで坂を登ってしまうことからしか使えない筋肉がある。
自分の今までの体のキャパを越えた場所は、あって
そこからはじまる自分の行為が自分の体を、かえることは、ある。


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初めての地元での展示というのを控えています。
逆に凄い、アウェーと言うか、
色々考えすぎてしまってただ作るみたいなことを立ち止まりがちにしているんだけれど
そこからやっぱり私の体を使って
やるしかない。
坂に登ってしまった、と思うと、大悩みも、元気が出ます。
おりれないかもしれないけれど自分でおりるしかない坂が、
そのつど、時期毎、現れてくれる時期だと思っています。


その自分が行為することしかない、という孤独は
駅まで自転車をとりに歩いた時に感じた
春の風が体に実際に当たる空気の気持ちよさにも、通じると感じます。
この身体であることで感じられる、
ひとりでしかないこと、
しかし、ひとりであれること、
いつか
このここちよさの記憶は、
未来の年おいた私を支えるだろう、と思った。



本当に、物事には到達、みたいなことは一応しかなくて、
捕まえたかと思えば逃げてしまうし、
別に捕まえたからと言って、そのあと食べるか生かすかしないで握っているとそれは腐っていく
本当に、考え続けるしかない、ということに、
うんざりして、死ぬまで終わらないのか、
とか思う時もあるけれど、
なんというか、
行為が過剰になってくると言うか、
その波の上で考える事になってくると、
やっぱり面白くって
その展開も
まだ、以前捕まえたもののバージョン違いみたいなものだとは、いいきれなくて、
長生きしたいなと、思います。

原因aもしくはbもしくはcは結果が起こってから現れる

昨日は、朝から昼前までのバイトを終えて、
久しぶりにあれもやるこれもやるでやる気で夜更かしをしたら眠かったので、昼寝をした。(眠さに驚いて、驚いた事に驚いた。夜更かしをしたら翌日眠いと言う事を、いつになったら学ぶのだろう?と、思った。ただ、その分夜中にやれた事もあるので、自分のリズムにとってなにが最善かと言う事への試しを繰り返していくんだろう。というふうにも今考えている。)
起きたら、
さむい
ゾーッとする。
春は来たと言うのに…
カーディガンを着てもダメだ。
背中がゾーッとしてる…。

と思っていたら、湿布が貼ってあった。そうだったね。
そういう時は、背中の湿布をはがせばいい。

こういうことは、一見ばかばかしいと言うか実際ばかばかしいし、
けれど、シリアスな感じの時でもこういうことって実際にあるだろうなあと思った。
もうだめかも、ぞーっとする…背中がぞーっと、し続けて、死ぬかも…もう…助からないかも、みたいな時も、原因は湿布かもしれない。
上記は、もうちょっと、別の事で比喩をつけたかったけれど今ぴったりくるのが思いつかなかった。
湿布はかつてよかれと思って貼って、実際効いていたという点も面白いところだった。